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私が保健医としてこの学校に赴任して来てから、そろそろ一ヶ月になる。
ここでの生活に、だいぶ慣れてはきたのだが――。
「久神先生、おはようございます!」
「あっ……ああ、おはよう」
こうして挨拶された時、とっさに返事が出て来ず、タイムラグができてしまう。
長い間、挨拶というものが必要ない環境に身を置いていた為だが……これはもう、場数を踏んで慣れるしかあるまい。
そんなことを考えながら、保健室に向かう途中。
「先生、おはようございます!」
聞き慣れた声が、少し離れた場所から飛んできた。
声のする方を振り返ると、案の定――。
「……聖、君か」
この学校の二年生で、ある意味、学校で一番の有名人――聖 双葉が立っていた。
「はい! 先生、私の名前、覚えてくださってるんですね」
「ああ。……君は、有名人だからな」
私の言葉に、彼女は居心地悪そうに身をすくめた。
美形の転校生二人にかしずかれる生活というのは、傍から見るほど楽しいものでもないらしい。
しばらく彼女と肩を並べて歩いていたが、ふと、あることに気付いて、足を止める。
「……この匂いは?」
「えっ? 何か、匂いがしますか?」
「いや、不快な匂いというわけではないのだが……シトラスのような香りが……」
「シトラスって、柑橘系でしたっけ? だったら、アロマオイルの香りかも知れません」
「アロマ?」
「はい。グレープフルーツとか、柑橘の匂いは集中力を高めてくれるって聞いたので、勉強する時に焚くようにしてるんです。……少しでもはかどるといいなぁ、って思って」
「……なるほど。それで、効果のほどは?」
そう問うと、彼女は困ったような笑顔になる。
「あまり効果はないらしいな。まあ、気分転換ぐらいにはなるのだろうが」
「そうですね」
その後、軽く世間話をしたあと、私は保健室へ、彼女は自分の教室へと向かった。

この学校はどうも、虚弱体質の生徒が多いらしい。
休み時間のたびに、多数の生徒達が保健室へとやって来る。
しかも、なぜか女生徒ばかり……。
ダイエットとやらで、ろくに栄養を摂っていない為か? その割には、どの生徒も妙に血色がいいようなのだが。まあ、細かいことを気にしても仕方あるまい。

……今日は、生徒の数が特別多かった為か、疲れてしまったな。
そういえば昨夜は、夜遅くまで本を読んでいたせいで、あまり眠っていなかった。
多少、仮眠を取った方がいいか?
いや、職場で居眠りするのは、いくら何でも非常識というものだ。
もう少しだけ……我慢を……
駄目だ、本格的に眠くなってきてしまった。
十分だけ、仮眠を取るか……。

夢かうつつかは分からんが、その後、入り口の戸が開く音がした。
「……生? 久神先生、いらっしゃらないんですか?」
聞き覚えのある声が、やや離れた所から聞こえてくる。
この……声は……。

「――先生! 久神先生、いつまで寝てるんですか? 駄目ですよ、こんな所で寝たりしちゃ! 風邪引いちゃいますよ!」
肩を揺すられる感触で、眠りの中にあった意識が呼び覚まされる。
「ん……んっ?」
目を開けると、窓からは黄金色の夕日が射し込んでいた。
十分だけ仮眠を取るつもりが、つい熟睡してしまったらしい。
「大丈夫ですか? お疲れなら、ベッドでゆっくり休んだ方がいいんじゃ?」
見慣れないその女生徒は、私を気遣ってか、そう言ってくれる。
「いや、単なる寝不足だ。心配は要らない――」
そう言って立ち上がろうとした時、肩にかけられていたとおぼしきブランケットが、はらりと落ちた。
いつ掛けられたものなのだろう? まったく覚えがない。
「これは……君が掛けてくれたのか?」
「いえ、違います。わたしが入って来た時には、既に掛けてありましたけど」
「ふむ……」
床に落ちたブランケットを拾い上げた時、独特の匂いが鼻をつく。
柑橘のような、爽やかな匂い。これは、もしや……。
「わざわざ持ってきて掛けてくれたのか? 物好きなことをする」
そう呟く唇が、ひとりでに笑んでしまう。
「えっ? 物好きって……何がですか?」
傍らにいる女生徒は、不思議そうに問いかけてきた。
「いや、何でもない。独り言だ」
そう言った後、私はブランケットを畳み、机の上へと置いた。
終業を告げるチャイムが、静かな保健室に響き渡った。

(終)



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